1.発端
2.経過
3.オウム真理教がなぜ烏山に・・・
4.オウム真理教が起こした事件
5.サリンとは・・
6.烏山上町会の対応
7.大家・高山の素顔
8.協議会の活動方針
9.船頭多く・・・
10.アレフの分裂と大家・高山の死
11.「ひかりの輪」の観察処分 国が敗訴(上)
12.「ひかりの輪」の観察処分 国の敗訴(下)
13.アレフ最大施設・札幌(上)
14.アレフ最大施設・札幌(下)
15.勾留中の麻原・死刑まで
16.再発防止処分

1. 発 端

2000年12月21日だった。その日、烏山上町会では12月の役員会があり、50名ほどが会議に参加をしていた。12月最後の会合ということでお酒と少しの料理が出てお疲れ様という流れだった。準備をしている最中、突然役所関係の人だろうか、集会所に入ってきて「大変です、アレフが入りました!」と言ったのです。オウム真理教がアレフに名前を変えたとは知りませんでしたので、アレフって何? そんなリアクションでした。誰かがオウム真理教だ!といったので大騒ぎになりました。 その人の話では、12月18日、金曜日の終業時すれすれに13か所の世田谷区の窓口に別々に住民登録があった。その13人は皆同じ住所になっていることに気付いた役所の人が現地に行ったところ、そこのマンションの大家はオウム真理教を入れたと言ったそうだ。その年は年末で役所的にも終わっているので年が明けて1月9日に烏山区民センターホールで第1回目の反対集会が開催された。会場の定員385人に対し700名以上が詰めかけて、オウム真理教対策住民協議会が設立された。

2.経 過

 区役所の方も大騒ぎになり、相手がオウム真理教と解り一度受理した住民票を不受理とした。 13人のオウム真理教信者は、世田谷区が一度受理した住民票を不受理にしたこと対し、世田谷区を相手どって裁判を起こした。この裁判は高裁まで戦ったが勝てる見込みがないことを判断し、世田谷区の敗訴が確定することになる。 オウム真理教が入ったマンションは甲州街道と旧甲州街道との間で、吉祥寺行バスの折返し所を入ったところにあった。左側に茶色のマンションがあり、1階部分は空洞になっていて、かつてはここに幼稚園があったそうだ。その部分には椅子や机が散乱していた。その空洞の部分を囲って中は見えないようにしていた。しばらくすると畳の山が道路沿いに出来ていた。まだ内装が追い付いていないのだろう、畳は雨が降る日もそのまま放置されていた。このマンションはまさに烏山上町会のエリア内に位置していた。このマンションの前の道路は子どもたちの通学路になっており、すぐに見直しを迫られた。このマンションの裏側には商店街があり、人の流れが変わり烏山の商店街でもオウムの話で持ち切りになり、他地域のように「オウム反対」の立て看板を街中に出すのか、どうか話し合われたようだが、烏山では土地の値段が下がる等で立て看板は出さない事にしたようだ。 当該のマンションには早朝から各テレビ局が押し寄せていて、アレフの荒木広報部長や地元自治会の人がインタビューに応じていた。役所の批判をするとスタジオの出演者が反応して、現場の状況がリアルタイムで放送されるのが何かおかしな感じだった。 反対運動の会長を誰にするか、かなり揉めたようだ。烏山上町会が当該の町会だが、国内で無差別大量殺人事件という大きな犯罪を起こした団体に対して、1町会が矢面に立つことに不安を覚えることは自然な事かもしれない。結局、烏山地域の倉本俊幸連合会長が就任した。

3.オウム真理教がなぜ烏山に・・・

オウム真理教が入ったマンションの大家は地元では、ある意味でかなり有名な人物だった。その高山と言う大家は店子とも常に揉めていた。マンションの3階以上が分譲で、その人たちとも自分が管理人になって、管理費の問題でうまくいっていなかった。マンションの住民に対する嫌がらせで、マンションを囲うように貨車に乗せるコンテナを7つほど並べて、景観を悪くしていた。 道路を挟んで向かい側にマンションが3棟あるのだがそこも高山が持っていた。 そこは賃貸で貸していて、1棟に12部屋あるが、住んでいる人は本当にまばらだった。高山は店子といつも揉めていて、不動産会社が入っても意見を聞かないので、どこの不動産会社も仕舞にはお客に高山のマンションを紹介しなくなっていたようだ。マンションはいつもガラガラで、固定資産税の支払いにも窮し、その打開策としてオウム真理教を呼んだと言う。  当時、上祐は刑務所から出所して足立区に居住していた。そこに高山は複数回手紙を書いた。そして上祐は烏山に視察に来たと言う。最初に13人が烏山に来た。烏山の問題が特殊なのは、普通は大家を騙してオウム真理教が不動産を借りるというのが常なのだが、大家がオウム真理教を招き入れたと言う事では烏山が初めてのケースとなった。この大家はオウム真理教の足元を見て、通常の家賃より3万前後高い設定にして貸していた。

4.オウム真理教が起こした事件

1995年3月20日、この日はオウム信者が出勤時8時頃、地下鉄丸ノ内線、日比谷線、千代田線の車内に猛毒サリンを撒いて死傷者6500人という世界で初めてサリンを使って無差別に大量殺人事件を起こした日だった。 その事件の前から自分たちの子供がオウム真理教に入信して帰ってこない。会いに行っても合わせてもらえない、といった相談が数多く警察に寄せられていた。オウム真理教を扱う弁護士やジャーナリストがオウム真理教から付け狙われている、といった情報も出ていたが、警察ではそうした情報を体系化されていなかった。坂本堤弁護士一家殺人事件は、坂本弁護士がオウム問題で親御さんの相談を聞いてオウム真理教と対峙している中で起こった事件だった。夜分に坂本宅を襲撃して、そこですぐに親子3人を殺して、その遺体を山奥の山中にばらばらに埋めていた。公証役場の苅谷さんも、妹がオウムに入って、自分の遺産を全てお布施する事になり、それを阻止しようとした苅谷さんを拉致して殺し、高性能焼却炉で遺体を燃やした。他にも修行中に死んだ信者もこの方法で焼却し、灰を本栖湖に捨てた。地下鉄サリン事件の1年前に松本サリン事件が起き、この時には8人を殺害し140人がサリン中毒の症状を出していた。車の荷台にサリン製造器とサリンを撒く排出口を作り、そこからサリンを一定時間撒いて移動していた。
地下鉄サリン事件の時は、早朝からテレビで実況中継がされており、原因が分からず、病院に搬送する様子を流していた。サリンと言う言葉が出てきたのは午後になってからだった。サリンと言うことが分かれば対応方法は分かる。 その報道を見ながら私はこの事件を起こしたのはオウム真理教だと確信していた。この事件の少し前に、江川紹子氏が週刊文春に3週連続でオウム真理教の特集を組みオウム真理教の特殊性を訴えていた。それを読むとやはりそこに暴走する狂気を感じていたからだろう。その事件から2日後に山梨県上九一色村のオウム真理教本部への強制捜査となるのである。

5.サリンとは・・

地下鉄サリン事件で使われた猛毒サリンは、世界ではドイツとソ連が持っていた。どちらもほぼ同じものだが、専門家に言わせると化学式が少し違うらしい。一番最後の下の毛のような部分が違うらしい。 地下鉄にサリンが撒かれたとの発表の後、それはソ連製だとの報道があったが、ロシア大使館からその報道は止めるように要請があった。 オウム真理教がロシアに進出する時期とソ連崩壊の時期が重なり、お金さえ出せば何でも手に入る混乱した状況であった。そうした中でオウム真理教はロシアのテレビに出て信者を増やし、また、機関銃、サリンの精製プラント一式、サリンを撒くためのヘリコプターを買い付けていた。ヘリコプターは分解して日本に輸入し、組み立てたが飛ぶところまでは行っていなかった。麻原彰晃は7トンのサリンを作り、それを東京の上空から撒くことを計画していたが、オウムに対して強制調査が迫っていることを知り、計画を急いで、地下鉄にサリンを撒いた。
 地下鉄サリン事件の時、患者の症状からこれはサリンではないか、という情報を出したのは米軍だった。かなり前に旧満州で日本陸軍が細菌兵器を研究していたと批判する報道があった。ソ連が細菌兵器を研究していたなら、日本も対抗して研究しておかないと、戦闘現場で膠着した状況なら敵が細菌兵器を使った場合、解毒方法を知らなければ部隊が全滅してしまう。太平洋戦争で玉砕地として硫黄島がある。ここで日本軍は地下にトンネルを掘って生活空間にしていた。遺骨収集に行くとここには火炎放射器で焼き尽くした跡や使用禁止の毒ガスを使った後の空缶が転がっているそうだ。米軍が使ったものだ。世界で使用禁止としても実際に戦況が悪化して膠着すれば、毒ガスでも何でも使うという事である。

6.烏山上町会の対応

オウムが烏山に入った時期は、上町会は山田雅則氏が会長だった。副会長が志村武夫氏でお二人はよく現場に顔を出していた。月1回の役員会議の中でオウム問題は最後に、その時の状況と進捗具合を話していた。
私は当時、千歳烏山郵便局の一角でメール街という商店街を作り、会長だった。商店街は町会と接点を持つべきと考え、上町会と顔合わせをして、その年で町会の役員を降りるつもりでいた。しかしオウムが来たことで商店街でも人の流れが変わったと騒いでいたが、実際には何も出来ることはなかった。4月の役員会を前に上町会のオウム担当部長と言われ、商店街のこともあるので引き受けることになった。そして役員会には「オウム対策の現状」というレジメを作り最後にオウム問題を話す時間を頂いた。
そうした中で上町会の副会長は現場に出て、オウムの荒木広報部長とはよく話す姿が見受けられた。ついには荒木と一緒にオウムの道場に入ってしまい、警察や公安調査庁からそうした行為はやめてほしいと注文が入っていた。それでもあまり気にするようでもなくテレビでも発言していた。副会長はそれから躰を悪くして入院することになるが、入院先に荒木がお見舞いに行ったとか、葬儀の時に荒木がお焼香に来たとかは本当の話であったかどうかは分からない。ここまで来るとオウムの監視も度を超えていると言われても仕方がなかった。  1月に出来た住民協議会は、会議があってもまずは組織作りから始めなければならなかった。当初参加する人は多かったが、会議が進まないことを見て、会議を開くごとに参加人数は減っていった。4月になる頃には組織作りか終わり、新しい「オウム対策住民協議会ニュース」が発行されることになった。

7.大家・高山の素顔

大家の高山のマンションに住んでいた人から話を聞いた。
そのマンションはサンサンマンションといい、頭に第1、第2、第3と名前がついていた。そのマンションのトイレが故障して、ご主人が大家に修理をお願いに行った。しかし、いつになっても修理がされず、大家に苦情を言うと家族が出かけている日中にドアの鍵を変えられてしまった。生活はその部屋でしているのだから、中には入れなければ何もすることができない。大家の部屋に行ったが不在で、途方に暮れ、紹介してもらった不動産会社に言っても埒が明かず、最終的に裁判を起こす事になる。このケースなら非道い大家で、簡単に店子が勝ちそうなものだがそうはいかない。この大家は地域の人と再三トラブルを起こし、50件ほどの裁判を起こしてまだ負けたことがないと自慢していた。訴状は全て自ら書き、弁護士も付けずに自分でやる。それを知っている付近の住民たちは高山との接触はなるべく避けていた。この事件を知り、高山がオウム真理教を呼んだと言うと、あの男ならやりかねないと誰もが思うようだった。
話を元に戻すが、その裁判を起こした御夫婦だが、別の場所を借りて移り住む。裁判の最中に、夜分1時とか2時とかにドンドンとドアを叩かれる。しかし出てみても誰もいない。それを何日も繰り返されて睡眠不足になり、ご主人が高山の部屋に行き、暴言を吐く。高山はあらかじめ来ることを予想していて、その声をレコーダーに録音している。その録音を裁判の証拠として出している。負けないはずで ある。その録音が決め手になって高山は裁判に勝っている。
ご主人は血の涙を流し悔しがっていたが、これ以上長引かせても仕方ないと周囲から諭され、諦めた。
高山のような人とは知合いになりたくないものだ。

8.協議会の活動方針

最初に考えた事は、烏山から決してオウム真理教の信者を出してはいけない、それだけは阻止しなければならないという事です。それには住民に対して広報活動をすることが大切だと考えておりました。

① 監視活動
まず、反対運動をするとしても、オウムの動きと状況を知らなくてはならないので、監視を続けようと考えた。実際には区の幹部職員がオウム真理教が入った時期から監視を続けていたが、住民も続けなければならないと考え、有志が監視を始めた。住民が監視を続けているということで成城警察も24時間の監視を始めてくれた。住民側はローテーションを作り、町会・自治会、商店街、関係団体が入り月1回程度の監視を続けている
② 協議会ニュースの発行
この状態を地域の人にお知らせしなければならない。その為には新聞を作って発行する必要がある。そこでオウム対策協議会ニュースの発行を始めた。区側も予算がないからどうするのか、と心配をする。それは住民に話せば寄付が集まりますから、新聞を作りながら並行して寄付集めもしましょう、ということになった。新聞の配布方法だが区の施設、回覧板の他、新聞折込を考えて烏山地域に配布できるようにした。
③ デモ・学習会
デモなどは行ったことがなかったが、他に方法が思いつかなくて、デモを行い、その後、ホールで講師をお招きして勉強会を開催する。これを年に2回開催することを決めた。
④ 募金活動
新聞発行にはお金がかかります。新聞の紙代、印刷代、折込料、他に備品等もあるが新聞の発行費が全てと言ってよかった。町会等の他に様々なイベントに参加して募金を頂くこと。これが活動資金になりました。

この4つを協議会の活動目標にしました。皆様にはあまり興味はないかもしれませんが、大事な事なので入れておきました。

9.船頭多く・・・

協議会にはいろいろな人が実行委員に入っていた。
メール街の役員に卵屋さんがいて、そこに間借りしている坊さんがいた。かつては焼肉屋さんが入っていたが、その後、中を改修してお寺の仕様になっていたらしい。坊さんの食事は卵屋さんが出していて、そこのご主人は、自分は前日の残りを食べているのに、坊さんには炊いたばかりのご飯を食べさせるとこぼしていた。オウム真理教が入って少しして、仏教のことも理解が必要とその坊さんに仏教とオウム真理教の流れ、立ち位置を話して貰うことになる。オウム真理教は稀に見る本格的な宗教と絶賛していた。その勉強会の後、会議には必ず出てくるようになった。
この坊さんの宗派は法華経で、かつては創価学会の教授だったそうです。その立場から池田大作の立場になりたいと望んで行動を起こしたが、学会を追い出されてしまい、裁判をおこす。それから全国のお寺を巡って寄付を集めて歩いた。そして関西に住職をやってほしいという寺を見つけて、そこの住職になる。しかし檀家が少ないので需要がある時に寺に帰っているらしかった。
その坊さんがある時から俺が会長をやる、と言いだした。百戦錬磨のこの坊さんから見たら会議に出てくるメンバーなら御しやすしと見たのだろうか。ある時、食事をしながら、「山田実行委員長と古馬事務局長はオウムから金を貰っていると飲み屋を3~4軒廻って話せば一晩で烏山中に広まる」そうしたら辞めざるを得ないのではないか、という。そして実際に飲み屋で話したらしい。山田さんに相談すると、それは大変だ、すぐ会議を招集しよう、という事になった。烏山で大した面識もない坊さんが、飲み屋でそんな話をした所で誰が真に受けるのだろうかと思うのだが、山田さんは慌てていた。
会議を招集して、本人に問いただすと、いつ、どこで、だれが、と、矢継ぎ早なに言い、証拠を見せろという。そこでその話を聞いていた人を呼んで、状況を話してもらう。坊さんは黙って会議場から出ていった。
坊さんにはなんの勲章もなく、せめて、オウム反対運動を指導したと履歴書に書く一行がほしかったらしい。同じ事を繰り返す人である。この一件でパトロンだった卵屋さんとうまくいかなくなり、何時か姿を消した。

10.アレフの分裂と大家・高山の死

アレフの分裂は3回目の観察処分更新が決まった事がきっかけだった。アレフの代表には上祐がなっていたが、上祐の方針は観察処分から逃れる事。その為に自分たちアレフは教祖・麻原彰晃を崇める事を否定した事にして、それまでの修行を全て止めてオウム真理教らしさを消していた。それは観察処分から逃れるために行っていた。われわれ協議会の活動も効果があったと思うが、観察処分はそこから逃れると再度、観察処分をかける事が出来ないという事。3回目で9年掛っている訳で、上祐が言うように観察処分を逃れられるのなら良かったろうが、継続になった。その9年間はアレフの教団運営は下降線だった。本来のアレフの宗家は松本家なのだろう。松本家はしびれを切らし上祐を追い出した。上祐の取り巻きは、ただ追い出されるのではなく新しく団体を作ろうと進言した。そこで場所的に道場がある方のマンションを取って「ひかりの輪」を作った。信者は60人程が上祐に付いていた。3棟のサンサンマンションに住んでいるアレフの信者も道場がない場所では修行しにくいという現実があったのだろう。それから暫らくして、アレフは足立区にビル一棟を買って全員が移り住んだ。

この頃には大家・高山は癌で入院していた。奥さんは離婚して養老院に入っていたが、知らせを聞いて離れて住んでいる息子に連絡を取る。病院で息子と面会させ、和解をさせる。息子は当時、遺産はいらないとして税務署に財産放棄の手続きを取っていた。しかし、途中で気が変わり税務署に返却要求をするが、一度出した書類の返還は出来ない事を知る。それならどうしたらいいのかと聞くと、そのままなら高山の姉に遺産は行く。そこの養子になれば遺産はもらえる事を知り、養子になり吉田性を名乗ることになる。遺産を貰うと相続税がかかる。現金は無いのだから物納になるのだが、ごみは片づけて更地にする必要がある。結局5~6年掛って土地を整理して、それでも2~3億円ほどが残った計算である。

11.「ひかりの輪」の観察処分 国が敗訴(上)

オウム真理教の各3団体は観察処分に処されている。それぞれの団体は更新されるたびに観察処分不当の裁判を起こしている。5回目の観察処分更新についてのひかりの輪からの訴訟で、東京地裁は観察処分不当の判決を出した。4回目の更新の際に裁判所からも内々で5回目の更新は難しいと言われていた。上祐たちの活動はオウム真理教らしくなく、彼らが言っているように宗教的な活動には見えないようだった。オウムの最高位にいる上祐は修行のすべてを知っている。それを全て消して緩いサークル活動のようにしているひかりの輪に観察処分更新をするのは無理があると結論付けたのだろう。しかし、我々が心配しているのは観察処分が終われば上祐たちは自由になる。一度かけた法律が終わってしまったら再度、観察処分を掛けることは出来なくなる。観察処分が終わってしばらくしてから、やっぱりオウム真理教の教えは素晴らしいと思うのでまた、勉強してみたいといっても誰もそれを咎めることは出来ないのです。烏山地域に警察や公安調査庁の監視も出来ない宗教団体が生まれてくるということです。住民協議会が反対するのは自由だが、法的には何の根拠も無くなる。 裁判の日はすぐに判決を言い渡して終了するので、昼頃には烏山に帰れる。上祐は余程嬉しかったのか、住民の監視小屋を通るときに、詰めている住人に対し「ご苦労さまです」と、馬鹿丁寧にお辞儀をして行った。裁判に勝って協議会に対して「ざまあみろ」と皮肉の一つも言いたかったのだろう。法曹関係者の誰に聞いても地裁の判決は覆らないだろうという。控訴してもまず勝ち目はないという。しかし、そうした判決の中で国は控訴した。

12.「ひかりの輪」の観察処分 国の敗訴(下)

私は滝本弁護士に電話を入れた。観察処分の敗訴について今後、協議会として何か出来ることはありますか、と尋ねました。すると、裁判所に対して住民から要望書を具申することは出来るという。そう聞いても何の対応もできずに時間だけが過ぎた。3年ぐらいで結審があり、その前の夏、麻原ら13人の死刑が執行された。その際にマスコミからのインタビューがあった。観察処分が終わるとどうなるか、その危険性を話した。その放送を聞いていた烏山総合支所長が電話をくれた。その話を新聞に書いて出すべきだ、という。協議会の広報部長に8月の新聞発行はない月だったが発行したいと言っても、なかなか理解をしてもらえなかった。広報部長は内容等を世田谷区から指摘されても決して変更することなく強硬な人だった。新聞発行を広報部が治外法権のように支配していた。それでも大事なものは発行しなければならない。烏山地域にだけ発行する紙面に載せる事が出来た。そしてその新聞を公安調査庁に依頼して裁判所に要望書と一緒に提出する事が出来た。裁判にぎりぎり間に合う時間だった。2審の裁判には協議会からも全て出席した。上祐はいつも一人で弁護士も付けずに対応していた。裁判所では両方がそれぞれの書類を裁判官に提出して終わりになる。その中に私の書いた新聞も新しい証拠物件として入っている。それを上祐もしっかり目を通す訳だ。判決は年が変わり、新しい観察処分が更新された後だった。ここで国が負けるとその観察処分も無くなってしまう。だが2審の判決は国が逆転勝訴となった。 ある法務省関係者は今回の判決には、直前で裁判官を変えたという。以前の裁判官はひかりの輪の観察処分を外すと強硬だったらしい。それで敢えて変わったのかは分からない。判決の瞬間、上祐は空を仰いだ。公安調査庁はあの新聞のおかげと感謝してくれた。

13.アレフ最大施設・札幌(上)

札幌市白石地区にアレフの日本最大施設が出来た。ここもオウム関連会社がビル一棟を買い上げた。その話はマスコミ報道で知る事になった。オウム問題は地域で行うのだが、オウムが入った市区長の首長が集まって毎年、会議をしている。オウム真理教問題市区町連絡会といい、会長はアレフの東京本部がある足立区の区長がなっていた。全国にあるオウム反対運動の協議会もオブザーバーで出席していた。その席で札幌市白石地区から町会の代表が来ていて、自分たちはこれからどのように進めていくのか、よく分からないと言っていた。会議の後、協議会の面々だけが集まって食事をしながら意見交換をしていた。その中で一度、札幌に行って現地の町会・役所関係者と懇談をしようという話になった。日程を決めて東京から世田谷・烏山と足立区、金沢市から総勢7人と高橋シズヱ氏にも同行していただく。 会議は白石地区の区民会館で行われた。白石地区から地元町会のメンバー、役所からは会館の責任者が一人。テレビ局が2つ入っていた。なにか暖簾に腕押しのような感じがした。 会議の前にオウム施設を視察していた。ビル自体は何の変哲もない4階建てで、そこに若いお母さんが小さな子供を連れて中に入っていく。若い学生のような人が自転車で来て車庫に入ってゆく。ビルの周りには何ヵ所もカメラが設置されていた。ここには世田谷区のような警察の監視もなく、公安調査庁の監視もなく、地元住民の監視もなかった。施設は国道沿いにあって、向かいにはドラックストアーがあり、隣は中古車センターで普通の商業地にある。我々が視察している状況をテレビ局が追っていて、一塊になっている様子を、国道を走る車から何が起きているのかと車から躰を乗り出して、周りを見渡していた。 北海道地区のオウム真理教活動が一番活発で、お布施の量も一番多い。また新しい信者獲得数も北海道が一番多い。足立ナンバーの車もあった。 帰りの飛行機を待つ時間にラーメン屋に入った。丁度テレビがニュースをやっていて、白石地区のオウム施設問題で東京から協議会のメンバーが来て、地元町会の人達と懇談したという内容だった。その後、記者は札幌市役所に電話をして、オウム問題で懇談があったが市役所はどのように思いますか、と聞いた。 役所の人は「オウム真理教とアレフとの関係が今一つ分からない状況で特に話すことはありません」と話していた。

14.アレフ最大施設・札幌(下)

一度目の札幌訪問から2年が過ぎていた。オウム問題市区町連絡会で札幌から来た協議会の会長は現地の進捗状況を上手くいっていないと話す。札幌市役所はあまり協力的ではないと言う。そんな話を聞きながら再度、札幌に訪問する話になった。私たちが高橋シズヱさんを一緒に行ってもらおうと思うのは、高橋さんはオウム問題では第1人者でマスコミの注目度も高い。一緒に行くことによってマスコミを動かす事が出来るからである。札幌に行くと言うと中村裕二弁護士も参加すると言う。中村弁護士は北海道選挙区の鈴木宗男氏と面識があった。飛行機で隣合わせたようだ。そこで北海道の実態を話すと、すぐ動いてくれた。札幌では同じ会場で話し合いをすることになっていて、現場を視察してから時間いっぱいに会場に入ると会場には入りきれない人数が集まっていた。席に座ると司会は地元の自治会長、県警から3人、地元警察から2人、札幌市役所から数人、北海道庁からも来ていた。なぜ札幌市役所が数人かというと、彼らは自分の名札をこちらに見えないように曲げていた。これだけ集まったのは鈴木宗男氏の力だろう。電話一本でこれだけ現場が動くという事に驚かされてしまう。会議は2時間だが、司会はわれわれ協議会の状況発信に時間を割いていた。そんな話は聞きたくない。北海道まで来て話す話ではない。だからこのような話ではなく北海道の協議会活動が動かない事を話し合いたいと言った。それからは少し会議らしくなった。2時間はあっという間だった。北海道の役人からは何一つ発信は無く終わった。 その日は地元のジンギスカンを食べる食堂に入った。またテレビでその日の会合を放送していた。その日は地元オウム反対協議会の会長がインタビューされていた。会長は「オウム真理教とアレフとの関係が今一つ分からない中、特に申し上げる事はありません」だと。

15.勾留中の麻原・死刑まで

小菅にいる死刑囚の生活は、死刑執行までは遺族に手紙を書いたり、手記をしたためたり、本を読んだり、様々であるようだ。日中に横になることは出来ない。死刑になれば生が終わる訳で、その日は当日急に支度をしろと言われるので、ある意味、緊張した日々になる。死刑の前の日は少し豪華な食事が出るらしい。するといよいよかと感じるそうである。 上九一色村で逮捕された麻原は、取り調べには協力的ではなかった。しかし、自白をしない麻原に対し、他の信者からの自白で畳みかけられ、麻原は何も話さなくなった。拘置所は3食提供される。言葉を発する事は無く、普段は起きていなければならないが麻原は横になっていたと言う。看守が注意しても治らなかったので言わなくなった。食事が出るとあっという間に平らげてまた横になる。 麻原の側近と言われた人間からの自白に、麻原は無言から更に踏み込んで◯◯垂れ流しという形をとっていた。それはオウム裁判が始まってすぐだった。麻原は何か言われてもウーウーという何か精神が崩壊したような対応をしていた。小菅の拘置所に家族が面会に行っても、麻原はウーウーと言っていて会話が成り立たないと言っていた。その時には◯◯垂れ流しを行っていた。麻原の部屋からは常に◯◯の匂いがしていて、その付近から常に苦情が出て、麻原の部屋は2階の一番奥になった。隣の部屋は大人用のパンパースの山があった。週に2回、部屋から風呂場に連れ出される。裸にされ、一人が後ろからホースで水をかけ、一人がモップブラシで背中に付いた◯◯をそぎ落とす。それを20年近く、死刑を執行されるまで続けるのである。 こうした事は一般に表には出ていない。20年近く話さず、寝ているばかりの生活で、頭の中も思考停止になっていたのではないだろうか。 その麻原が死刑に際し、遺骨は4女に、などと言ったのだろうかと考えてしまう。その遺骨が今後、オウム真理教にどのように影響してゆくのか、裁判の途中である。

16.再発防止処分

アレフに対し再発防止処分が科せられたのは、観察処分の3ヶ月毎に公安調査庁に出すべき書類を出さない事からだった。それを続けると再発防止処分に移行すると示唆されていた。アレフは「オウム真理教被害者支援機構」から起こされた裁判に負けて10億2500万円の支払命令を受けていた。12億ほどあった資金を数千万になる様に信者に振り分けて隠したので、現金の流れや信者の名簿を出すと隠し場所を悟られると考えたのだろう。再三の提出要請に応じなかったため、観察処分から再発防止処分に移行した。 観察処分は観察しているだけで、弱い法律だと思っていた。だが再発防止処分は最高に厳しく締め上げる法律との認識だった。それなのにアレフはいとも簡単に再発防止処分を受け入れた。受け入れるには弁護士を入れて法律を徹底的に調べ上げた結果だろう。緩い法律と思われたのだ。 再発防止処分は6か月毎の見直しです。再発防止処分が科せられて、最初の立入検査の後、公安調査庁は、道場に入ったら信者が道場ではなく通路で修行をしていたと、だからアレフは法律を守っていると思っている様子だったと言う。立入検査は年に1度か2度です。その時にドアを叩かれて、開くまでに10分も掛っていたら道場から通路に移動するのに充分の時間です。それで再発防止処分が機能していると言えるのか、普通は可笑しいと思うでしょう。それを指摘したら、公安調査庁は2回目の見直しから、信者は道場の使用は出来ないのだから、道場には立入が出来ないように変わった。するとお布施も入ってこないし修行もできない形になった。これは25年前に適用できなかった破壊活動防止法と同じ効力になっている。あの時、破防法を適用していればアレフなどはこんなに長く永らえていなかったのではと法務省判断を残念に思っている。