関東大震災から100年目
烏山上町会では防災について随時新しい情報を載せています
できることからはじめましょう
自宅避難
地震の時の避難は自宅避難が原則という事です。
①集合住宅にお住まいの方は、建物自体が耐震基準をクリアしているので、基本的に被害に遭わない、というのが前提になります。基本的に避難所には入れません。
②優先的に入れるのは一戸建ての全壊家屋、及び半壊で自宅に住めない人が、一時的に避難する場所です。
③避難所には決まったエリアの人達限定になります。
烏山上町会の人は烏山北小学校には近くても行けないということです。
2022年1月17日 会長の報告より
古馬会長が定例役員会で話した内容をお伝えします
・1.首都直下地震の国側の対応
・災害時に備えて
・避難所について
・関東の大地震の歴史
1.首都直下地震の国側の対応
①自衛隊
自衛隊は国の要請を受け、朝霞の航空自衛隊に災害の本部を設置する。全国から朝霞駐屯地に援軍、各種資材が運ばれる。
これを第5方面隊という。
池尻の自衛隊は医療の粋を集める自衛隊中央病院で、ここに大量傷者を搬入する。用賀の自衛隊は医療品等の保管所にあたる。
三軒茶屋にある自衛隊募集事務所は災害時、高層ビル屋上から渋谷、世田谷、目黒の被害状況を調査し、また分りにくい所は特殊オートバイを出して調べ朝霞本部に報告をする。
朝霞本部は各所から入る報告を分析し、大量傷者又は人命救助を必要とする場所に72時間、3日間の救助活動を展開する。
各所にある募集事務所は全てこうした役目を負っている。
72時間を過ぎると、救助活動から幹線道路の開通を目指す。援助物資は幹線道路を通って運ばれるため、開通するまで物資の配給はなされない。(幹線道路の車を排除するにしても積み上げるのでその後、車は使えない。そうした法整備が出来ていない)
緊急事態条項。
②警察
警察の活動も道路等の事情から、大きな活動はできない。
建設業者との提携で災害時、幹線道路の開通を協力してもらう。
人命救助等。
また、災害時には犯罪率の増加も著しいものがある。
③消防
大地震で火災が起きる事も予想される。しかし道路の通行が出来て火災現場に到着できるかが問題になる。
到着できない場合、地元の消防団が唯一の救世主となる。
また、大地震で負傷した人を、救急手配で呼んでも、回線はパンク、全ては機能しないと思われる。医師がいる避難所に行っても負傷者を松沢病院や自衛隊中央病院まで運ぶ手段がない。そのためのヘリは数台しかない。命の危険がある場合も助ける手段は少ない。
大地震が起きた時、我々は
大地震が起きると電気、ガス、水道はすべて止まります。
エレベーターも止まり、トイレも使えなくなります。
その時、何の準備もしていないと大変悲惨な環境に陥ることになると思います。
避難所より自宅
大地震が起きても、自宅が倒壊しないのであれば、自宅で過ごした方が安心でストレスが生じないと思われます。それには室内が散乱しない方策や室内で生活する準備が必要になります。食料、水、簡易トイレ、その他電灯、マッチ、コンロ等の必需品を用意しておく。
家を出るときは電気のブレイカーを落とす、ガス、水道の元栓を切ることを忘れずに。
火事は出さない
火事を出すと大変です。そのためにも消化器は必需品です。小さい内に消し止めてください。
関東大震災での死亡者は大半が火事による死傷者です。大正12年の頃の住宅は木造で、丁度、昼食の準備に取り掛かった頃でした。
当時は七輪などを使って火を起こしていたのでしょう。そこに地震が来たもので、あちこちから火が出ました。いまは、ガスか電気の調理ですので、それ程火事が多いとは思いませんが、送電されたときの電気機器での火災が心配されます。
避難所に来たら
自宅に住めるなら、避難所に来る必要はありません。
避難所に来ても避難所は予想を遥かに超える人数でごった返しています。避難所に入れるかどうか、入れたとしても何も持たないで避難所に来て過酷な生活を送ることになります。
地域内のマンションには避難所案内の地図が貼ってあります。何の準備もしていない人達が、避難所に行けば何でもあると考えて集まってきても備蓄品は限られた数しかありません。大多数の人たちが何の知識も準備もなく避難所に来ると考えられます。しかし、避難所に来てから現実を知る事になると思います。
避難所の備蓄はわずか
避難所にある備蓄食料は(乾パン、お粥、アルファ米)500人程度が、1日3食を3日取れる分量です。
しかし本当に殺到する避難者は3000人とか5000人とかになると考えられます。しかし、500人しか避難所には入れません。また、避難所に入った人達はお客様ではありません。全員が動いて避難所運営に協力していきます。
3日頑張れば、と言うのは自衛隊がすぐに復旧活動をすると考えた場合です。しかし、自衛隊が幹線道路を開通する作業を始めるのは、人命救助をする3日を過ぎてからです。すると幹線道路の開通は、それから3~4日かかると思われます。7日から10日を頑張らなくてはいけない計算になります。避難所に入った人たちもその3~4日分をどうするのでしょう。
避難するにしてもザックに食料等を入れて、避難する必要があるのです。
トイレの問題が一番切実です
50人程の集会があると、5~6人はすぐトイレに行きたがります。避難所でも一番先にトイレを作る必要があります。避難所ではマンホールトイレを設置しますが、慣れないとなかなか機能しないと考えます。マンホールトイレを設置して、マンホールに水をスムーズに入れることが出来るのか、という事が大事になります。
避難所のトイレは使用を禁止していても使われて山盛りに成っています。そうなると簡易トイレを使った原始的な方法しかありません。
教室等を仕切って、トイレ部屋を作り、そこで用を足した物をビニールに入れて便袋に捨てる。その準備をして置く必要があります。
阪神淡路大震災の時、成城警察の署員が3日目に応援に入ったが,駅に降りた瞬間に街中が、臭ったそうです。
何の準備もなく地震に遭遇し、どこのトイレも山盛りで、仕方なくあちこちで場所を探して行ったわけです。
多分、関東に大地震が起きたら、そのような状態になると思われます。
災害時に備えて
首都直下地震はいつ起きても不思議ではない時期にはいっております。
もし自宅で大地震が起きたら、必ず生き残れる様に対策を考えておかなければなりません。
自宅にいる為には、あらかじめ水や食料、簡易トイレの準備が必要です。
電気、ガス、上下水道が使えない状態で自宅にいるには、夜は照明、料理用のガスコンロ等、必要なものを考えて準備をしてください。
食料品等の備蓄
備蓄は本来、1週間から10日分が望ましいとのことです。幹線道路が開通しないと援助物資は届きません。
7日以上を持ちこたえる食料と水を備蓄してください。
避難所にある食料は乾パン、お粥、アルファ米といったところです。
しかも500人が1日3食で3日分です。
あとはどうするのでしょう?
子どもさんが一緒なら尚、大変です。
備蓄と別にお子さんの好きなものをザックに入れてあげて、避難してください。
災害時、避難所は
災害時、家に住める状態なら、避難所に来る必要はありません。
集まって来た人達で、避難所の開設をします。
避難所に来た人は、お客様ではありません。
避難所は全員の協力で運営していきます。
また、避難所には限られた備蓄品しかありません。
避難所に入るにしても、自宅から必要品の持ち込みは大変重要になってきます。
持ち込みとは、ザック1個分です。
避難所にすべての人が入れる訳ではありません。
住民の避難所は決まっています。
マンションにお住まいの方は基本、入れません。
家をなくした人、高齢者、子ども、妊婦等が優先されます。
実はトイレが大問題
都心部では水洗トイレが普及していて、それが主流になっています。
災害時、上下水道が長期に渡り利用不能となる事が予想されます。
水洗トイレの使用に慣れた人達にとって、自宅でも避難所でもトイレの問題が一番大きな問題となり、ストレスになる事が予想されます。
1.自宅で準備するもの
①日頃から大震災を想定して家の中に家族が10日程、生活できる食料、水、簡易トイレ、生活に必要な機器、コンロ、電灯等を準備しておく。
※今回の台風で砧、玉川地域では多摩川の氾濫で避難所に避難しました。
これからは地震だけが災害ではなくなりました。
②家が倒壊して住めない場合は避難所にゆく形になるが、その時もザックに必要なものを入れて避難する必要があります。
特にお米が大事です。
子供を連れて避難しても食料がないと悲惨です。
2.大きな地震が起きた場合
・まず、生き残ること。
悲惨な形であっても、10日を耐えきれば援助が来ます。
・自宅から火事を出さない。
火が出ても消化器を使って小火で抑える。
大地震の中で、火事を出すと消防車が来ない状況と思われます。
消火栓の水を被ると火事特有の臭いがして家具は使えません。
全部捨てるようです。
3.まとめ
・町会や防災訓練に参加しない人達に、如何に防災の意識を持ってもらえるか。
大部分の住民が、準備もなく、困れば避難所に、と思われて行動されても対応できないわけです。
・災害が起きて避難所に来ても、広場は人でいっぱいで避難所の準備をしている間、誰を避難所に入れるかを選別することになります。
マンションの住人は耐震基準以上の建物なので対象外になります。
優先するのは全壊家屋、高齢者、子ども等。町会エリア内に限定。
他の人は中に入ることが出来ません。
他を探すか、自宅に戻るしか方法はありません。
準備をしていない大部分の住民にこの状況をどのように周知するのか、また行政の住民に対するPR方法も再検討をお願いする必要があると考えます。
避難所について
避難所の実態
過酷な避難所の状況
日本の避難所は世界的に見ても圧倒的に数が不足しているかもしれません。
首都圏で大地震が起きると、それは東北や熊本と比べても人口密度が違います。
烏山上町会で考えると、町会世帯数1万軒、住民2万人です。
その人たちが定員500人の○○中学校に集まってきます。
中にはいれる確率は2.5%です。
この状態ですとすぐに定員100%、避難所は埋まる状態でしょう。
避難所には地域の小、中学校が割り当てられております。
使われるのは主に体育館です。
体育館の大きさは小、中学校ともほぼ同じ大きさになっています。
震度5以上で避難所の開設となります。
避難所を運営する側は、まず、体育館にテープでレイアウト通りの線を張って通路を作り、住居スペースをつくります。
そしてそこに数組が入れるブルーシートを置いて、この状態で人を入れていきます。
東日本大震災や熊本地震の例を見ると避難所の環境はかなり過酷な環境と言えるかもしれません。
隣との間仕切りはない場合が多く、プライバシーは守られず、子供の泣き声や体調の悪そうな人がゴボゴボ咳をしていたり、走り回る音で落ち着かない避難所生活が始まることになります。
いつも明るく、騒がしいため、眠ることが出来ず、病気にもなり易く、たいていの方が体調を崩すのはほぼ確実のようです。
「避難所がこんな所なら来なければよかった」と家に戻る人も多いのです。
避難所がそういう環境だという事を前提に、非常持出し袋の中にはアイマスクと耳栓は必需品です。
それなしにはとても寝られません、と避難体験者は話します。
あと、持出し袋の中にお米を入れて持ってくること。
4日目からは食料がなくなるからです。
それともう一つ大事な事はスマートフォンです。
避難情報やその他さまざまな情報はラジオからだけでなく、ネットからの情報が不可欠です。
知人との連絡も可能になります。
電源ですが携帯用の太陽光パネルが物販店の防災グッズのコーナーに5000円前後で販売されています。
これは必需品です。
避難所でのルール
避難所のルールは事前に決められていて、張り紙で告知されます。
災害が始まってからのルールの変更はできません。
もし変更が可能だと、必ず「ルールを変更しろ」という人が出てきます。
そんな事になるときりがないからです。
そのためには決められたルール通りに行動し、みんなで一日も早く日常生活に戻る努力をする必要があります。
ですから「ルールを守れない人は出て行ってください」という事になります。
避難所で多発するトラブル
東日本大震災の時、海岸に打ち上げられた津波の被災者のポケットから、普通の避難所の人たちが財布を抜いていたという事実を聞いていましたが、避難所の中でも盗難は多く発生しています。
避難所に来る人達が皆、準備万端で来ている訳ではありません。
着の身着のままだったり、何も持ち出せなかったりしている訳です。
悲惨な状況になればなるほど、他人の所有物を盗むような人が出てくるのです。
トイレに行くたびに、自分の所有物が失われるのが日常茶飯事になります。
自分のスペースを離れる場合、貴重品は持ち歩くか、家族など信頼のできる人に留守番をお願いすること。
また、他人の前ではお金などの個人情報の話をしないこと。
サバイバルな状況ではお金があってもコンビニやスーパーには物品は置いてありません。
水や食料を他人に見せるのは危険であると知っておきましょう。
被災地で横行する犯罪
メディアの報道では被災地では皆が助け合って規律正しく生活されている、と言われていましたが、実際に被災した方や復旧活動に関わった人たちからは犯罪の話をかなり聞かされていました。
中でも、届け出にくい犯罪である女性へのレイプなどは相当数が闇に葬られたと思われます。
人気のない場所でのひとりの行動は避け、トイレや着替えはなるべく見張りを立てるように注意する事。
女性らしい服装は避け、なるべく複数で行動する事。
窃盗やレイプ以外でも以下のようなケースが散見される。
◎風呂やトイレを貸す、と言って女性や幼児を誘い出す
◎避難所での覗きや盗撮に注意する
◎避難所で、夜に見知らぬ誰かが布団の中に入ってくる
◎自宅に居ても震災ボランティアや消防隊を装い接近し、協力した後に高額請求をしてくる
こうした性犯罪は避難所の中でも起きているのです。
避難所の暗い部分ばかりを書いてきましたが、明るいニュースや感動する話も沢山有ります。
ここでは明るい話は割愛させていただきました。
自宅避難の勧め
避難所に行かない選択肢
避難所生活は悲惨で大変だということを別の所で書いてきました。
避難所に行っても中に入れてもらえるのかと心配する前に、避難所に行かない選択肢も考えてください。
大地震が発生したらスーパーやコンビニには買い物客が殺到し、食料品や生活必需品はあっという間になくなります。
頼りの支援物資がいつ届くのかは未知数です。
行政では3日頑張れば支援が来る、と言われていましたが、最近では1週間から10日と認識を改めました。
まずは自宅で地震に遭遇しても生き延びる準備をしなければなりません。
地震の後に飛び散った物を片付けながら家族が生活できる空間を作ります。
もともと自宅には生活用品が揃っています。
日頃からいつも食べているものを、少し余分にストックして置くことです。
自宅避難で自宅には何を備蓄したらいいのか
飲料水
1日1人3リットルを目安に7日分の家族分を備蓄
非常食
缶詰やレトルト食品などは、日常的に保管されていると思います。
冷蔵庫の中には3日、4日分の食材があります。
足が速い順に使ってゆく。
また、ストックしてある食材もローリングストックを心がけ、無駄を少なくします。
保存食にはパスタも有効です。
保存期間も長く、何もなくても塩とオリーブ油が有れば美味しくいただけます。
トイレ
簡易トイレはいろいろなメーカーで販売しております。
ない時にはごみ袋に新聞紙を刻んで使う方法もあります。
使用済みは厚めのごみ袋に入れてゴミの日に出します。
カセットコンロ
暖かい食事やお湯は何よりのご馳走です。
カセットは多めに買っておく。
これさえあれば冷蔵庫の食材も無駄なく活用できます。
ライト
全体を照らす明かりはランタン、懐中電灯だけでは不便です。何種類かが必要です。
◎必要なものは自宅の中にあるので、片付けながら探してください。
そうすることにより避難所より落着いた安心で安全な空間を保つことが出来ます。
大地震で生活インフラが止まった場合、復旧するまでかなりの時間がかかります。
電気
東日本大震災では早い所で当日、遅くても完全復旧まで約1週間でした。
停電したらブレーカーを下げる事。
上がっていると通電の際、通電火災のリスクがあります。
水道
東日本大震災では、水道で3日後に約半数が復旧。
3週間後にはほぼ全世帯が復旧。
ガス
東日本大震災では、ガスは安全面も考え、電気や水道より遅れがちに。
完全復旧まで約1が月かかりました。
◎これは東日本大震災で人口密度の低い東北地方の状態でした。
人口密度の高い首都圏では果たしてどのように成るかは未知数です。
関東の大地震の歴史
災害の記録は江戸時代から始まっている。
それ以前は文字を書けなかったから、あるのは朝廷が記録したものである。
江戸時代には寺子屋などが出来て、一般住民も文字を覚える機会ができて、多くの記録が残っている。
江戸時代からの関東の大きな地震
1605年 慶長地震
1628年 寛永地震
1703年 元禄地震
1855年 安政地震
1923年 関東大震災 大正12年9月1日 AM11:58発生
◎江戸時代以前には、一般の記録にはないが、その程度の地震はあったと思われる。
◎関東の地震は約100年に一度ずつ起こっている。関東大震災から99年。
関東大震災 概要
関東大震災は1923年(大正12年)9月1日AM11時58分、相模湾北部を震源として発生した巨大地震でした。
地震の大きさはM7.9で地震としては最大ではありませんでしたが、本震から3分後の12時1分にM7.2、その5分後の12時03分にM7.3という巨大な地震が3度発生した。
2度目の震央は東京湾北部、3度目は山梨県東部が震源となった。
(当初、被害が余りに広大で不規則だったため、正確な震央について少なからず疑問の声が上がっていた。1993年に岐阜測候所から地震の波形データーが発見されことにより、3つ子地震だったことが判明した)
この地震で神奈川、千葉、埼玉、静岡、山梨で震度6以上の揺れが発生。
震度7の地域は本震の震央とされる神奈川県小田原~鎌倉にかけての相模平野一帯から横浜、東京、房総半島南部にと広範囲にわたり、主要動が10分間にわたって継続したといわれる。
人口密度の高い地域と火災により死者14万人、現在の貨幣価値に換算して320兆円という甚大な被害をもたらした。
地震による倒壊家屋
地震の体験者によると、最初に地震を感じてからドーンという突き上げがあり純粋の上下動が5~6秒続いた。
収まったかと思ったその20秒後に上下左右に30センチも揺れるかという本震が10分ほど続いた。
全体では余震を含めて1時間20分程揺れ続けた。
地震の直接被害は震源に近い神奈川の相模湾を望む地域(横浜、小田原、大磯、茅ケ崎、鎌倉)と房総の千葉(那古、館山、北条、舟形)が最激震地となり甚大で沿岸部の木造家屋30%が一瞬で倒壊、震源近くの地域では70%以上の倒壊率だった。
東京府は東京市とその周辺の郡部によって構成されていた。
山手線の内側あたりが東京市で、墨田川より東側が最も大きく揺れ、この地域の家屋倒壊率は20~30%近くに達している。
特に柳島一帯、本所、深川の大部分が最も被害が大きかった。
相模湾沿いの神奈川県と房総半島南西部に比較すると地震の程度が幾分弱かった。
震度は台地では軽く、台地と低地の接点と下町において激しかった。
それは下町の密集地域の民家が古く、また堅牢さを欠いていたことも原因しているが、地盤の強弱が大きく影響していることが実証されている。
東京市では日本橋区全壊不明、半壊不明、京橋区全壊不明、半壊47、麹町区全壊337、半壊不明、麻布区全壊721、半壊954、深川区全壊不明、半壊不明、本所区全壊493、半壊479、浅草区全壊133、半壊118、芝区全壊398、半壊777、牛込区全壊515、半壊1001などとなる。
下町に接した北豊島郡、南葛飾郡の一部は倒壊が激しかった。
北豊島郡には日暮里町、滝野川町、王子町、三河島町、南千住町など。
南葛飾郡では亀戸町、大島町、砂町,吾妻町など。
豊多摩郡には中野町、杉並村、高井戸村、淀橋町、目黒区、渋谷町などがあるが、揺れは激しかったが倒壊家屋は多くはない。
北多摩郡には府中町、立川町、調布町、三鷹村、神代村、千歳村、砧村などがあるが被害は千歳村で全壊11、半壊93で一番多く、砧村では全壊3、半壊3の被害だった。
東京湾はかつて海が大きく日比谷の辺りまで切れ上がっていたものを、徳川家康が江戸入りした1590年頃から干拓を進めていて、江戸時代も続けて今の形になっている。
そうしたエリアや池を埋め立てたエリアは特に大きな揺れや地盤沈下が著しかった。
地震による火災の状況
地震が起きた時、人々は激烈な振動に狼狽してかまどや七輪の火を消す精神的ゆとりを持つ者は少なかった。
殊に倒壊した家では、圧死から逃れるだけが精一杯で、かまどや七輪におこっていた火の上に木材や家財がのしかかり、たちまち火災が起きた。
また、天ぷら屋などの飲食店では、激しい震動で油が鍋からこぼれ出て引火した。
更に最大の発火原因になったのは薬品だった。
学校、試験所、研究所、製造所、工場、病院、薬局等にあった薬品類は棚等から落ちて発火した。
特に学校からの出火は最も多く、東京高等工業学校(3か所)日本歯科医学専門学校、陸軍士官学校予科理科教室、東京帝国大学工学部、同医学部薬学教室(4か所)、麹町高等小学校、等々。
地震発生と同時に、火災は東京市内15区すべてに起こり、麹町区10、神田区12、日本橋区2、京橋区10、芝区3、麻布区1、赤坂区4、四谷区1、牛込区5、小石川区7、本郷区10、下谷区12、浅草区23、本所区17、深川区11、計134、また郡部でも44ヵ所から出火、合計178ヵ所にも及んだ。
そのうち83ヵ所は、出火後消防署員、民間人の消火活動によって消しとめたが、95ヵ所で発した火災は強風にあおられて巨大な火の流れとなって延焼し、さらに火災現場からの飛火も激しく、市内のみでも飛火によって百余ヵ所から火の手が上がった。
中には、墨田川を越えて対岸に飛火した例もあって、東京は火の逆巻く世界と化した。
大火災は、9月1日正午に始まり9月3日午前6時まで続いたが、東京市の43.5%に達する千48万5474坪という広大な地域が焼きはらわれた。
殊に日本橋区は1坪も残らず焼失し、浅草区98.2%、本所区93.5%、京橋区88.7%、深川区87.1%とその被害は甚大だった。
東京市の全焼戸数は、全戸数48万3千戸の中の30万9百24戸に及んだ。
2百39戸が半焼し、死者・行方不明者(圧死・溺死を含む)6万8千6百60名、重軽傷者2万6千2百68名に達した。
本所被服廠跡、3万8千人の死者
東京市で最も悲惨な光景を呈したのは本所区横網町にあった被服廠跡であった。
陸軍省被服廠の建物があった場所で、2万4百30坪の広大な敷地で、付近の人々は絶好の避難地と考え、地元の警察署も同地に避難民を誘導した。
そのために多くの人々が家財とともにあふれたが、火が四方から襲いかかり、
家財に引火し、さらに思いがけぬ大旋風も起こって、推定約3万8千人という死者を生んだ。
この数字は関東大震災による全東京市の死者の55%強に達する。
また、この頃の人々は家財道具を馬車や大八車に満載し、または背負って避難をしていて、それが道路、空地、橋梁などをおおい、人の流れは滞り、その多量の荷物が燃え上がり多くの焼死者を生む事になった。
激震地の災害
震源地の相模湾に沿った最大激震地の災害はすさまじかった。
小田原町では突然起こった上下動の烈震で、崖は一斉に崩れ、橋は落ち、家屋はもろくも次々と倒され多数の死者を出した。
箱根の温泉地でも866戸の家屋が倒壊し、旅館が断崖上から渓谷に墜落して四散した。
殊に塔ノ沢では渓流が崖崩れでふさがれて鉄砲水が起こり、旅館その他の家屋を流失させた。
横須賀の地震による被害もひどく、丘陵の地滑りが発生し、鉄道のトンネルが崩壊して列車3輌を埋め、2301戸の家屋が倒壊した。
浦賀、逗子、葉山、大磯、平塚、藤沢、鎌倉等の家屋もほとんど倒れ、平塚では海軍火薬廠でガスの引火によって大爆発が起こり構内の22棟が飛散した。
神奈川県下の家屋倒壊数は、全壊4万6千719戸、半壊5万2千859戸、計9万9千578戸にのぼり、全家屋27万4千300戸の36%強にあたる。
それ以外に津波によって流失した家屋が425戸もあった。
関東大震災の津波被害は大島、伊豆半島、房総半島、三浦半島、鎌倉に最高12メートルの津波があり、多くの人家が流失したが、それらの地域に限定され、地震・火災による被害と比べるとはるかに軽微なもので、間もなく静まっていた。
吉村 昭 著 関東大震災より引用
活動期に入っている日本
日本全体が地震の活動期に入っている。
東日本大震災は震度8で最大級の地震だったが、地震よりも津波で亡くなった人が多かった。
この地震は869年平安時代、貞観地震以来の大きさで、1498年、室町時代 明応地震は富士山の噴火、日本全体で地震が勃発し、今で言うところの南海トラフ地震が発生した。
浜松、名古屋、大阪、四国と大きな津波が発生した。