1  烏山文化寄席
​2  爆笑王・木久蔵
3  落語を知ったのは
4  談志師匠が来ない
5  落語会の始まり
6  こん平師匠は深酒
7  芸人の色紙
8  志ん朝さんが死んだ​
​9  小三治さんの魅力
​11 打ち上げが楽しみ
​12 給田小学校のお囃子
​13 昭和の名人、三遊亭圓生
14  談志と森繫と三橋・・・
​15 満州の怪人 森繁久彌
16 40回目でエンディング

​1 烏山文化寄席

 烏山で落語会を始めたのは30年以上前である。年に2回、40回やってお終いにしました。番組は5組、前座、二つ目、真打、中入りの後、色物、トリ、このトリが一番のゲストである。第1回目は古今亭志ん朝、2回目 柳家小三治、次が柳家小さん、4回目が江戸屋猫八、5回目 立川談志。考えてみれば凄いメンバーだった。全員が亡くなってしまった。
 1回目の志ん朝師匠は流石に満員だった。演目は「試し酒」。烏山区民センターホールは当時、385人入りました。 記憶に残るのは4回目に少し流れを変えてみましょうという事で、江戸家猫八師匠。高座では動物の鳴きまねを得意としていたが、どんな噺をするかワクワクしましたが、動物の物まねはなし。軍隊物の話で笑わせて笑わせて、最後は泣かせるという、凄かった。楽屋に行くと、着替えながら「まだこんな話が2つ3つあるので、まだ生きてたら呼んでください」と言っていたが、本当にこれ一回の出演でした。
 興業的には成功とは言えなかったが内容は素晴らしかった。

​2 爆笑王・木久蔵

 落語とは志ん朝や小さんのような古典落語が一番だと思っていた。誰もがそうだ、と思っていた。それで古典落語の演じ手を並べていたのだが、そうそういるものでもないし、また同じ噺家を呼ぶ事になってしまう。次回を誰にするかという事は大事な事である。
 林家木久蔵さんはどうか、と言われて何度か断ったのは笑点の見過ぎだったのかもしれない。3回目で出演の運びとなった。演目は「明るい選挙」。談志さんの選挙に落語家が大挙して応援に行ったのだが、三平さんが街宣車で、さんぺいです、三平です、と自分の名前を連呼したため、362票三平で入った。三平さんは談志の足を引っ張った。あの話です。面白くて面白くて、初めから最後まで爆笑の連続だった。帰ってゆくお客様の顔を見ると本当に満足そうな顔で、ありがとうございましたと言ってゆく。
 勘違いをしていた。これが一番大事な事なのだ、と考えさせられました。

3 落語を知ったのは

 落語って面白いと思ったのは25~6歳の頃でした。早朝、リビング新聞を 数所に降ろす仕事で、車のラジオを何気なく点けていると、「早起きも一度 劇場」という番組だった。特に聞いている訳でもなく、爺さんがぼそぼそ話し ていた。古今亭志ん生と言うらしい。何度も聞いている内に、耳障りではなく なって、何か聞き入ってしまうのである。それからは毎回、時間を合わせなが ら作業をするようになった。
 本当に面白いと思ったのは「付き馬」という噺であった。金もないのに吉原 に行って、さんざん遊び翌日、馬を連れて帰るのだが、おじさんの所で払うと 言って葬儀屋に連れてゆく。葬儀屋にはあそこの奴のおじさんが夕べ死んで棺 桶が超特大で何処にも断られて困っているので、おじさん作ってほしいと頼 む。馬は、おじさんは道楽者だったから、頼めばすぐに拵えてくれると言 い、双方にそれではよろしく、と言ってドロン。そこからの葬儀屋と馬とのや り取りがまた面い。
 私は荻窪にあるレコード屋に行って古今亭志ん生のカッセトテープを全部買った。凄い金額だったので月賦にしてもらった。 それくらいの落語の知識し か無いのによく寄席を始めたものだ。
 そんなものだから、木久蔵さんの新作落語を知らないくせに、出演をちょっとと思った気持ちもお判りになるかもしれない。

​4 談志師匠が来ない

 5回目の烏山文化寄席は立川談志師匠。談志が来るということで、満席でした。通常、出番が8時頃ですから、6時には楽屋に入っている。だが来ない。6時半を過ぎて7時頃になるとスタッフはソワソワしている。何故かと言うと、つい少し前、ホテルの落語会で、入り口のホテルマンと喧嘩になってしまい、そのまま帰ってしまったらしい。満員の客を残して。こんな事があると後の始末が大変なのである。 出番の 8 時になっても来ない。トリ前は15~20分ほどやって降りるのだが、近藤しげるはギターを持って 40分も繋いでいた。これが新人だったら同じ話を何度も繰り返すことになる。
 連絡が行った落語協会から何人かが駆けつけていた。そして出入り口の所に立って連絡係をしている。それから 10 分程して連絡係が両手で丸を作り近藤しげるは引っ込んだ。談志師匠は客席を通って舞台に上がった。それがまた受けるのである。
 近藤しげるは談志師匠が名付け親で、スタイルも談志プロデュース。ギターで野口雨情の話をする。そして雨情の童謡を歌う。なんとも言えずいいのだ。談志師匠の出囃子は童謡だった。
 打上げに少し付き合ってから南口にある三橋美智也の所に行くからと早々に帰っていった。

5 落語会の始まり

 烏山文化寄席が始まったのは妙ないきさつからでした。 ある日、立派な紳士が私の店に来て、このチケットを配ってほしいという。2日後に行われる三遊亭円歌師匠の落語会のチケットが凄い量あった。1枚も売っていないのだう。200枚ほどを預かって居酒屋数軒を回ってお願いして、すべて配り終わった。当日私も会場の烏山区民センターホールに行くと会場半分ほどが埋まっていた。
 円歌師匠は出てくるなり「福祉でも何でもいいけど人を集めてから言えよ。
こんなの明日には落語協会にも知れ渡ってるよ」怒りながら落語をするのだが、それでも面白い。この企画は落語家に福祉という事で安く出演料を設定し
てもらい、誰もチケットを売らなかったという事だろう。
 それから2か月過ぎた頃、またこの紳士が来て柳家小三治師匠のチケットを持ち込んだ。同じように手配したが、落語会が終わった後、この紳士と落語家
との間に入っている人と少し話をした。柳家小さん師匠のマネージャーでした。今回の落語会はこれでお仕舞いとの事。折角始まったのですから、続けて
やりませんか、と言われて、そうですねと答えたのですが、考えてみれば無謀な決断だった。頻繁に寄席通いをしている訳でもなく、昔の落語家しか知らな
いのによく40回も続いたものだ。落語会は24年かかって終了した。
 それでもこの落語会が順調に滑り出したのは、烏山の商店街のスタンプ事業が盛んであったこと。駅前通り商店街と烏山商店街、六番街商店街がそれぞれ
発行したスタンプと引き換えにチケットを出してもらい、こちらには定額を支払ってもらう形で200枚ほどが安定して売れていたからに他ならない。 烏山文化寄席の出発点では素人のようなものだったが、舞台挨拶でそのような事を言う必要は無いわけで、言わなければ判らない。だがそれから主催者は勉強をしてゆく。寄席に通ったり本を読んで勉強をするわけで、今では落語の大家として有名である、と思う。決して舐めてもらっては困るのである。

​6 こん平師匠は深酒

林家こん平師匠も登場した。まだ長期入院の前である。コマーシャルでは卓球を何年も続けており、体にはこれがいいとお茶の宣伝をしていた。
 楽屋に入ってから、歌手の大下八郎の店が烏山にあるからそこへ行きたい、と言っていた。打上げで少し飲んでから、その店に案内をした。大下八郎は彼の巡業時、一緒に回った仲だという。歌の合間をこん平さんが埋めたのだろう。店から電話をすると小一時間で駆けつけた。こん平さんは涙を流して喜んで2人で話し込んでいる。横で本当に嫌な顔をして前座の付き人が酒も飲まずに座っていた。
 私は適当に切り上げて帰ったが、前座はそうは行かない。師匠の面倒を見るのだ。落語会の後は必ず午前様のようで、それに付き合う前座も大変なのである。その前座に、いつも遅くまでですか?と聞くとウンと頷いた。毎日そんな事に付き合っていると、自分の稽古する時間も無くなってしまう。寝る時間もないだろう。それから暫くしてその前座は廃業したと聞いた。

7 芸人の色紙

 落語会のたびに色紙を10枚ほど用意していた。前座さんに頼んで書いておいてもらう。トリが3枚、真打ちが2枚、寄せ書きが5枚。 こちらではマジッ
クの太いのと細いの。赤と黒を用意する。それと墨をすっておく。ネタ帳には筆で記入する。3回目の小さん師匠が直々に表紙を書いて綴ったものを頂い
た。墨の横にネタ帳を置いておくと出演者がそれを見ながら今日の演目を決める。そして前座がそこに今日の出演者と演目を書き入れる。今になればそれが
唯一の宝物である。それには24年間かかった40回分の日付と出演者と演目とが書かれてある。
 色紙にもそれぞれ個性がある。マジックでさらさら書かれたものが多かったが、小さん師匠の色紙は凄かった。それは正にたぬきの絵だった。そこに他を
抜くと「他抜き」と書かれたものでいろいろ3枚。絵を書くだけでも時間が掛かるだろうと思われた完璧な作品だった。
 小さん師匠が出演の時は他の出演者もピリピリしていた。当時、落語協会会長。内部では時間の割り振り表があって、主催者側は長く伸びたほうが面白い
と思うのだが、この時は流石に全員が時間通りに終わっていた。
 小さん師匠には3回出演して頂いた。

8 志ん朝さんが死んだ​

 古今亭志ん朝師匠は62歳で亡くなった。癌だったらしいが実に惜しい。うちの落語会の1回目のトリだった。「試し酒」をやって、楽屋に行くと着替えながら「始終、私を呼ぼうなんていけませんよ。なにかの節目節目に呼んでください」。
 志ん朝さんが居ればあとは何でも良かった。誰がいなくても後に志ん朝さんがいるからと安心できた。志ん朝さんの喪失はぽっかり心に穴が空いたような心持ちだった。
 志ん朝さんは独演会とか定期的に開かれる落語会では家を出る前に、その日高座に上げる噺をさらっている。志ん朝さんは噺をノートに書いて覚えていた。そのようなノートが行李一杯ある。説明を入れなくては分からないと思う所にト書きをいれてある。ボロボロになったノートを広げて一通りさらうのである。志ん朝師の噺はテンポがよく展開が早い。1 時間くらいの長い話をするときには、さらっておかないと途中で止まるなどということは志ん朝の噺ではありえないのだ。実力と人気を兼ね備えていて、まだ 60 才ほどでは若すぎて名人と言えないだろう。だが皆が名人だと思っていた。人気と実力を維持していくのは本人の並々ならない努力があると思う。志ん朝ほどの天賦があっても努力をしなければトップの地位を保てないのである。
 ある時期、親父の志ん生の落語を覚えている側からすると、志ん朝の落語は説明が多く入っている。それがセコイと思っていた。しかし時間が経って志ん朝を聞くといいのである。本当にいい。
 あんな江戸弁をトントンと話せる噺家が居なくなったのは本当に残念だ。

​9 小三治さんの魅力

 柳家小三治師匠の趣味はオーディオとバイクだった。3回出演していただいたが出演の際には大型バイクが駐車場に止めてあった。1回目は「湯屋番」、2回目「らくだ」、3回目は「百川」。小三治さんの百川は滑稽話としても他に秀でていて、子さん師匠が「小三治の百川を聞いてやってくださいよ」と言う位よく出来ていた。百川という料理屋は江戸時代、外国人が来た場合はここで接待したと言う位有名な料理屋だったらしい。この百川に百兵衛と言う方言のきつい奉公人が入る。お客に注文を取りに行くのだが、お客が百兵衛の方言を理解できず騒動が起きる。百川は三遊亭円生も古今亭志ん朝もやるが、百兵衛の方言をどのように演じるかで差がつくのである。小三治さんは方言をオーバーに演じるから面白さが際立つ。
 「居残り佐平次」と言う噺も誰も同じように遣るが、これは、と言う所で個性が出る。品川の店へ無一文で遊びにいき、金がなくて居残りをする。布団部屋にいるのだが、店が立て込んでくるとぶつぶつ文句を言っている所に入っていって客の相手をする。そんなことをしている間にお客からお座敷がかかる。「居残り まだ居るかい」他のお座敷に入ってます。「それじゃ、もらいを掛けよう」このもらいを掛けよう、という表現に個性があると言うのである。小三治さんには独特のユーモアーがある。
 先代桂文楽師の噺に「かんしゃく」と言うのがある。15~6分で終わる噺だが小三治さんはこれを同じように遣って自分のものにしていた。文楽師匠は一つの噺を高座に上げる前に、磨いて磨いて余分なところを削り完璧にしてから更に数年おいて高座に上げていた。しかし小三治さんは晩年になるとこの噺を膨らませて倍以上の長さにしていた。あれはいただけないと思った。
 烏山文化寄席に出ていたころの小三治さんは最高だった。晩年の小三治さんは間が長く、考えながらやっているのかと思うほどだった。先代の小さん師匠が晩年には「笠碁」とか「うどん屋」とかをよくやっていたが時間的に短く纏まっている噺をやるのが普通なのだろう。談志さんは死ぬまで「芝浜」や「らくだ」「文七元結」をやっていたが。

​11 打ち上げが楽しみ

 寄席が跳ねると打上げは「ふぐちん」。演芸が8時半ほどで終わり、片づけをしてから移動する。すると9時過ぎになるのだが、2階が10人ほど入るので丁度いい大きさだった。ここを長く使わしてもらった。注文を取りに来るのが遅れても、勝手に冷蔵庫からビールを出して始めている。ここでの会話は噺家の裏話が多く時間が経つと更にヒートアップする。それが楽しみだった。噺家の世界は決して広い世界ではないようだ。その日の番組もトリと前座は一門だが、あとはばらばらである。それぞれがいろいろな情報を持っているので、嫌われている噺家はやり玉にあがる。寄席で一緒になるとその後、ちょっと一杯という事になって話し込むので、実によく業界の話を知っている。狭い世界なのだ。あの師匠が好きだからと入った一門でも、入ってみれば勝手が違うこともよく有ることのようだ。

 打ち上げに参加しなかった師匠は、志ん朝さん、小さん師匠、小三治さん、円歌さん、猫八さん。真打の噺家さんで烏山の知りあいと会うからと帰ったのは柳家蕎太郎さん。給田の古谷自動車の社長と大学の落研が同期で、その関係から今でも給田の神社で落語会を年に1度、開催している。 話を元に戻すが、話が盛り上がると11時を過ぎてしまう事もある。終電があることだし、時計を見ながら途中で帰る芸人さんもいる。それが普通なのだが大名跡を継いだ師匠は、自分は一緒の芸人には気を使ってタクシーで回って送ってやる、そうだ。それなら自分の金で回ってやればいいようなものだが、その分を少し出せと言う。嫌な師匠だ。大概の師匠はタクシーで一人で帰ってゆく。二つ目や売れない真打に気を使って、裏で芸が拙いとか、せこいとか言われたくないのだろう。そっちの方がせこいと思うけど。 とにかく、打ち上げと言うのは芸人さんの生の話が聞けるので楽しい場所だった。

​12 給田小学校のお囃子

烏山の芸能というと烏山芸能保存会と言うのがある。給田小学校にその芸能保存会の倉庫がある。中を見たわけではないが多分、太鼓とかお囃子に使う道具が置いてあるのだろう。烏山の芸能と言うのはお囃子である。お祭りの時、山車に乗って笛や太鼓に鉦で演奏をする。お祭りは担ぎ手が昔はわっしょい、わっしょいと遣ったが今はせいやせいやと遣るようだ。それにお囃子が合わさってお祭りが出来ている。どちらが欠けても成り立たない。このお囃子も中宿、下宿とも違い、船橋やかつての千歳村の中でも違うようだ。
 前置きが長くなったが、このお囃子を地域の芸能として烏山文化寄席で出来ないものかと香川純さんと話した。話は簡単にまとまった。日にちと出の時間、上演時間を提示すればそれであとはお任せである。
 それがいつ行われたかとネタ帳を開いてみると、平成12年5月17日、第28回でした。中入り後、囃子連中とあります。その日のトリは桂歌丸さん。「尻餅」と言う落語を遣っています。会場は8割方埋まっていていい雰囲気でした。その時のメンバーを香川さんに聞いたら杉田栄治さん、香川信照さん、伊藤弘康さん、杉田則夫さん、香川純さん、若い女性が入っていた。2曲お囃子を遣った後、獅子舞だった。獅子舞は杉田則夫さんが舞った。中央で演じている最中獅子の衣が腰の辺りまで捲れ上がった。それを袖にいた大幹部が出てきて直していた。お金を取って見せる演芸で、出て来てそれを直すのかと思ったものだ。学芸会ではあるまいし。だいたい20分で終わったが、面白い試みだった。それを機会にいろいろな所に出演をするようになったと聞いた。
 お祭りの時、山車に子供たちがたくさん乗って演奏したり、舞台でやったりよくこれだけ子供がいると感心するが、それは伊藤弘康さんが給田小学校に行ってお囃子を教えているからである。それを発表する場所があって、練習の成果を出せる。成長して今度はお祭りで神輿を担ぎたいと思うかもしれない。それを何十年も続ける伊藤さんは凄いと思う。そうした事が大切な事なのである。それこそ地域で表彰したいくらいである。

​13 昭和の名人、三遊亭圓生

 いま、都内にいくつ寄席があるのだろう。戦前、戦後とその頃は娯楽がなく演芸場で過ごす時間が庶民の楽しみだった。その頃の噺家はそれこそキラ星のごとくいて、落語や講談、浪花節とかの演芸場もそこいらにあった。落語をラジオで放送するのは、時間の枠があるので噺家に何分で終わってくれと言われても終わる時間がなかなか難しかったようだ。例えば桂文楽師に20分で終わってくれと頼んでも落語が完成しているため削るところがなくて、いつも大変だったようだ。演芸場が衰退したのはテレビ放送が始まってからだ。TBSテレビなどは昔から時代劇ものを作り放送していたし、落語の番組もたくさん作っていた。昔の映像が見られるのはTBSが一番多い。
 三遊亭圓生などは昭和の名人だろう。昭和の名人と言えば古今亭志ん生、桂文楽、三遊亭金馬とかで、もっといたと思うがその位しか知らない。その後が柳家小さん、古今亭志ん朝、立川談志、柳家小三治となるのだろう。
 三遊亭圓生の凄さは古典落語を遣らせたらその正確性、三遊亭圓朝の流れをくむ重さだろう。明治初めに圓朝が日本中を旅して古典落語の人情話を作り上げた。圓朝の「牡丹灯籠」や「真景累ケ淵」は長い話で8日、10日と演芸場で連日口演を打って大評判をとったと言うものだ。それをそのまま演じられるのが圓生師匠だろう。牡丹灯籠というのも1作目が「お露・新三郎」2作目が「お札はがし」3作目が「栗橋の宿」。怪談話で普通はこの位までしか遣らない。長い噺なので1作目、2作目を端折って一緒にしてやる人もいる。
 小三治さんに言わせると自分も入門当時は圓生さんに憧れたが、弟子たちは出てきて挨拶まで同じにしないと圓生さんは許さなかったそうだ。だから弟子たちは全て圓生さんのコピーをやっていた。普通、師匠に噺を教えて貰うとどうしてもそっくりになるものだが、途中から自分が出て来ていい味になるのだが、だがそうはならなかった。圓生さんが亡くなった後、弟子の円楽さんもこうした古典をやっているのを見たことがない。円楽さん(星の王子様)の落語は面白いと思ったことがなかった。その円楽を継いだ師匠もこの前亡くなった。落語は残っても古典と言われるものは消えてゆくのかもしれない。

14  談志と森繫と三橋・・・

前に立川談志師匠の話をした。談志さんが三橋美智也の家に行った話だ。家は千歳烏山駅から3分ほどだろうか。今はもう無くなっている。かつて、森繁久彌も含めてこの3人が仕事の後、毎夜、赤坂のラテンクォーターで待ち合わせていた。歌って踊って、森繁さんは談志さんからすると憧れだったのだろう。話がおしゃれで、何でも歌いこなし、踊ればプロ並み。年に一度、関係者を集めての忘年会ではそれぞれが隠し芸をする。森繁さんはパチンコ風景(昔のパチンコは玉を一つずつ入れる)をやるのだが、玄人が抱腹絶倒するという代物でみんなが期待しているその上を行く芸だ。それは伝説になっている。
その森繁さんに会いたくて会いに行ったらしい。
 談志さんは懐メロと言われる歌が好きだったようだ。歌手では三橋美智也が最高、女性は美空ひばり、これが口癖だった。こんな付き合いをしていて三橋さんとは特に仲がよく、談志が高座に上がる時は楽屋に遊びに来ていた。前座は演者が変わるたびに座布団返しとめくりをやって引っ込むのだが、三橋が出ていってやっても誰も気が付かない。まさか天下の三橋美智也が座布団返しをしているとは誰も思わなかっただろう。
 いつしか寄席で俳優とかアナウンサーとかいろいろな職種の代表を出して芸をやらせて誰が一番ウケルかというのを企画した。多分談志さんの発案だろう。俳優の代表で森繁さんが出た。談志さんは他所の箱に出ていて結果をすぐに聞きたがった。誰かが電話をした。森繁さんが全部さらって行きました。談志さんは満足そうに「そうだろう」と言った。

​15満州の怪人 森繁久彌

志ん朝の親父の古今亭志ん生師や三遊亭圓生などは実力があってもなかなか人気がでない売れない噺家だった。太平洋戦争もお終い頃になってくると、酒もなくなり、満州へ行けばたらふく飲める。そんな所で志ん生と圓生は満州に渡る。
新京のNHKは著名人の集まるサロンのようになっていた。そこにいたのがNHKアナウンサーの森繁久彌である。仕事の斡旋から夜の宴会、進行まで全てを仕切っていた。噺家は高座の上では面白いが、宴会の席では必ずしもそうではない。森繁がいれば初めから最後まで楽しませてくれる。
日本の敗戦が決まってソ連軍が侵攻してきても、他の帰れない人の面倒を見ていたが、その時に2人の噺家とも別れてしまう。森繁が帰ったのはその1年後だった。
新聞では満州に行った2人の噺家の名前が連日、登場して消息を書き立てていた。志ん生などは日本では実力があってもなかなか売れなかったが、そのお陰で名前は日本中に知れ渡っていた。2人が日本に帰った時には新聞にでかでかと出て、それからはどこの寄席(よせ)も圓生、志ん生の名前を見ると満席になった。
そして森繁久彌も少し置いて、NHKで始まる藤山一郎とのコンビの「愉快な仲間」でお茶の間に登場する。そのテレビを見ながら志ん生は倅の朝次(志ん朝)に「この男は只者ではないよ」。満州で見た森繁の宴会芸は玄人から見ても舌を巻くような代物だった。

★満州とは今の北朝鮮の上に九州を大きくしたような形でロシアと国境を境にしていた。満州は日露戦争で日本が勝利し、当時満州を統治していたロシアから日本に統治権が移って15年間日本が統治する。満州の首都新京はその真ん中あたりにあり、その少し上にハルピンがある。昭和13年当時の平均給与が50円の頃、東京駅から満州ハルピンまでの切符が105円で買えたそうだ。下関から釜山に行くコースと新潟からウラジオストクへ出るコースがあって、どっちも同じ料金だった。昭和13年ころ、日本のトイレは汲み取り式だった時、満州は水洗トイレでした。冬は零下30~50度で満州では大酒を飲んで家にたどり着き、そこで安心して門に寄りかかりで眠ってしまうと朝には凍りついている。日が出るころにそれが倒れると、カッキーンという金属的な凄い大きな音がするそうだ。すると誰かが死んだと思うそうです。

16 40回目でエンディング

寄席を40回やっても、好きな噺家さん以外の出演はあまり記憶がないのだ。35回までは一定以上のトリが出ていたが、36回目で止まってしまった。36回目は柳家小さんで決まった。先代小さんが亡くなって、多分小三治が継ぐだろうとしていた小さんを、倅の三語楼が電光石火、襲名した。その小さんをトリにして36回目の番組を作った。商店街に報告に行くと事業部長が変わっていて、烏山文化寄席はやらないという事だった。番組は出来ているし何とか今回はそのまま遣らしてもらって、次回からはいろいろ考えようと思っていた。番組が出来ているという事は、広告はしていないが芸人の日程を押さえたという事である。しかし新事業部長には何度行っても会えず諦めて中止にした。興行はチケットを売ることが一番大切なのだ。商店街のスタンプ事業にチケット販売を委ねて楽をしていた報いだと思った。
小さん師匠は急遽中止になったものだから、なぜ中止なのか、と再三問い合わせがあったようだ。小さん師匠にすれば、小さんを継いで、その真価が問われるところで満を持した噺を準備していた。新作落語の内容まで打ち明けていた。お詫びに少し包んでもらえないかと言われ、支払うことになる。
それから数年空白ができる。役所の方から世田谷区の事業でこれがあるけどやってみますか、と言うお話があった。1年に一度しか使えないという事でしたがお願いして、それから5年かかって40回を迎えエンディングとなった。
継続する落語会で年2回以上というのが条件で、いい噺家をまわしてもらえる。年に1回だとそこから外れることになる。だが若手のいい噺家をまわしてもらった。40回なら20年で終わるはずが24年かかったのはそうした訳だ。
落語会は聞きに行くには楽しい所だが、人を集めるのは大変だ。その頃にインターネットが普及していれば、それほど苦労をせずに会場を一杯に出来たろうにと思ったものだ。